今の建築は、見た目の美しさや仕上げのきれいさに主眼が置かれ、寸分の狂いがなく、几帳面に仕上がっているのが良い建築と評価される。だがある大工さんは、「プレハブ住宅は、建てたときが一番きれいで、時間がたつに連れて汚く見苦しくなる」と言っていた。「日本の建築は、年を経るほど味わいや美しさが出てくる」とも。ベニヤに薄板を張った突き板は、均一的な美しさはあるが、味わいが乏しい。味わいとは、不揃いの個性ともいえるだろうか。無垢の本は、同種類であっても、柱の一本、板の一枚に、同じものはない。木目や木の収縮が異なり、厚みも変化し、完全な木目でない限り、時間の経過と共に反りが生じる。その一枚一枚の反りに味わいがあり、無垢の本を実感させてくれるのである。また無垢の柱は、風雪や日光にさらされ、湿気と乾燥を繰り返すうちに、ひび割れが発生することがある。太木の中心まで「背割り」という切り込みを入れて、ひび割れを少なくする方法もある。とにかく、これで何百年も建ち続けるのである。もし、張り物の板なら、初めはきれいだが、しばらくしたら剥がれてきて見られたものではない。無垢の本は、どれ一つとして同じものはない。人に個性があるように、無垢の本にもそれぞれの個性があり、それが本物ならではの存在感と深い味わいを生み出している。無垢の本は、張り物の合板より二倍高くつく。その上、反ったり割れたり縮んだりして、扱いにくい。それでも「無垢が好きだ」という人に、私はものを見る目の確かさを感じる。生きた本や職人の仕事に四角四面な完全を求めたら、がっかりする場合もときにはある。自然の価値はそれぞれの人の取りようで、無垢を愛する人によって、その木は輝くし、そういった人の家は、価値あるものになるだろう。